僕は1997年5月、1つのカセットテープを作り終え、いくらかの満足感に浸った。
それは、カセットテープの両面150分に収まる楽曲を録音し終えたことに起因する。40曲近くあるあるそれらの楽曲は、僕が香港を意識し始めてからのこの13年間で収集した楽曲のベスト版といえる。
ベスト版というとかなり聞こえがよいが、要は僕の好みの楽曲を並べたにすぎない。
香港の音楽シーン自体日本ではあまり知れられることがなく、そのなかでも僕の狭い趣味の範疇からの選曲でありそれを僕好みと括ってしまう。
月日は巡るものだ。恐らく香港を語る多くの先生達が、99年の歴史の長さあるいは99年の短さを語り、それをもとに返還の是非を語っているであろう。たかだか99年、しかし99年生き続けた「99年香港」を語るのは人間の寿命をもとに考えれば至難だ。僕は現在たかだか50年にもう少しの生を続け、香港を意識したのはそのなかでもここ13年。この間訪港も6回、これもたかだかだ。しかし、それでも香港を知っている。
物見遊山といわれようと、僕は香港を訪れ触れた。6回の訪港を切り分けるならば前半の3回は、やみくもの観光、後半の3回は友人との再会。しかしこれではあまりにも性急すぎる。
さらに、このままartmaniaのHPにアップするなどかなりに強引だ。けれど、この強引さを持ってして、香港の音楽シーンを語り合える友を得たい。
要は、この5年香港を訪れていない事実が、僕を焦らせ、HP作成へと駆り立てるのだ。(98年7月21日記)
A |
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1 |
流涙的銀河 |
中島花代 |
4分42秒 |
96年 |
96年秋に発表された「劉以達」のアルバム「麻木」に収録。作詞・唄は中島花代 作曲は劉以達。 |
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2 |
月満繁星夜 |
浮世繪 |
3分26秒 |
89年 |
浮世繪=life exhibitionの存在は僕に中に大きく沈澱している。 |
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3 |
誘惑 |
王靖零 |
3分54秒 |
94年 |
映画「恋する惑星」の第二のエピソードでストーカーの様な役を演じたはずの王靖零が歌う。作曲は劉以達 |
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4 |
蜜蜂王子 |
周啓生 |
4分31秒 |
91年 |
KraftWerkを演じる優等生 |
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5 |
無情実験 |
林憶蓮 |
3分41秒 |
87年 |
作曲は劉以達 |
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6 |
長城 |
BEYOND |
4分7秒 |
92年 |
93年6月貧困な日本の音楽シーンの犠牲となった「BEYOND」の日本でのデビュー曲。「進ぬ!電波少年」のテーマソングといった方が通りがよい。この事実だけでも悲しい。 |
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7 |
玖瑰園 |
劉以達和夢 |
3分50秒 |
92年 |
薔薇がなくちゃ生きて行けない。 |
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8 |
淫紅砂塵 |
黄耀明 |
5分22秒 |
92年 |
劉以達と組んだ「達明一派」のボーカリスト黄耀明のソロデビューシングル。黄耀明は「達明一派」の解散後の92年、活路にエスニックを求めた。 |
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9 |
青春残酷物語 |
達明一派 |
4分12秒 |
96年 |
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10 |
夜惘列車 |
達明一派 |
3分56秒 |
87年 |
87年にすでに香港にテクノは存在していた。 |
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11 |
Mao Saves Xiaoping |
ADAM MET KARL |
3分38秒 |
89年 |
原曲はsexpistolsのgod save the queen。 バンド名のADAM MET KARLは「アダムスミスがカールマルクスに出会った」つまり97年などまだまだ先にみすえられた時代の産物。(その後AMKに改名) |
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12 |
十戒(新篇) |
AMK |
1分31秒 |
93年 |
ADAM MET KARLはその後AMKとバンド名を変更。 |
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13 |
誰誰我愛YOU |
VARIOUS ARTISTS |
8分20秒 |
92年 |
これは、僕なりのミュージックコンクレート。お遊びです。前半部分の発端は性に関わる隠語を香港の友人に投げかけたときのリアクションから。試すならば香港人に「は!い」と「は」にアクセントを込めていってみてばよい。男は大笑いし女性には殴られるはず。例えば喫茶店でウエイトレスにアッシュトレイを要求し「はい、どうも、はいざら。はいざら、どうも」と言えばよい。 |
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14 |
心秋 |
民藝復興 |
3分13秒 |
91年 |
達明一派とは一線を画するインテリミュージック(と呼ばれるらしい)の民藝復興の佳曲。 |
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15 |
石頭記 |
達明一派 |
4分30秒 |
87年 |
87年に香港で大ヒットしたメロディアスな名曲。渡辺が香港のロックに没入するに至った近因。この作詞を担当した一人陳少棋*は日本の歌詞に興味を持ち、特に松田聖子の歌う松本隆の詩に影響を受けたという。(*陳少棋の棋は実際は王へんの棋、jisコードでしか成り立たない日本の文字体系の弊害。これ以上正確な表現は現状のブラウザでは無理) |
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16 |
溜冰滾族 |
達明一派 |
3分59秒 |
87年 |
僕が香港ロックの最高傑作を選べといわれたら、10年前も、そして現在もこれを挙げる。 |
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17 |
毎日一禁果 |
達明一派 |
4分19秒 |
96年 |
達明一派 は96年に再結成を果たす。そして発表されたこの楽曲は、96年度の最優秀歌曲を多数の音楽賞で得た。 |
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18 |
face the antagonism |
劉以達 |
2分52秒 |
92年 |
黄耀明の「淫紅砂塵」と比較すれば、解散に至る原因が見えるというもの。劉以達と黄耀明のロック圏外の音楽へのアプローチ、取り入れ方の違いは余りにも明確。 |
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A |
total 74分3秒 |
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B |
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1 |
TELL ME MORE |
浮世繪 |
4分30秒 |
89年 |
「スタイルカウンシル」だ!! |
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2 |
心秋 |
劉文娟 |
4分28秒 |
91年 |
女性デュオ「夢劇院」のひとり劉文娟が民藝復興の「心秋」に詩を添えて歌う |
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3 |
青春祭 |
民藝復興 |
3分32 秒 |
92年 |
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4 |
極樂 |
民藝復興 |
4分22秒 |
92年 |
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5 |
今天慶該很高興 |
達明一派 |
5分56秒 |
96年 |
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6 |
流星 |
王菲 |
3分59秒 |
96年 |
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7 |
千顆碎星 |
浮世繪 |
3分55秒 |
90年 |
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8 |
叮冨(ドラえもん) |
AMK |
3分4 秒 |
95年 |
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9 |
I always love the one who doesn't love me |
ADAM MET KARL |
4分3秒 |
92年 |
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10 |
without roots |
JUNO'S INFANT |
3分10秒 |
92年 |
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11 |
石頭記 |
陳慧琳+雷頌徳 |
3分58秒 |
96年 |
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12 |
縋綣28800bps |
關淑怡 |
4分44秒 |
96年 |
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13 |
我的天 |
胡倍蔚 |
2分48秒 |
96年 |
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14 |
Thriller の一部 |
Xpre.Xr. |
10秒 |
92年 |
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15 |
suns in the sky の一部 |
TERRACON |
31秒 |
92年
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16 |
どうしてよ の途中まで |
林憶蓮 |
3分11秒 |
94年 |
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17 |
毎日一句 |
陳美齢 |
1分50秒 |
87年 |
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18 |
神秘女子 |
許冠傑 |
3分18秒 |
88年 |
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19 |
天下亂墜 |
達明一派 |
4分0秒 |
88年 |
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20 |
我是太空人 |
許冠傑 |
3分53秒 |
88年 |
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21 |
日本娃娃 |
許冠傑 |
3分10秒 |
85年 |
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22 |
Document at Victria Park |
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1分7秒 |
92年06月04日 live |
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B |
TOTAL 73分39秒 |
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中環のフェリー乗り場から南Y島へ渡った。新品の自転車を積み込んだ三十過ぎの男や、喋り疲れた二十代のカップル、野外活動用品をリュックからはみ出させている十代の集団に混じり乗船した。12月の午後の陽光は鈍くはあるが、それでもフェリーにまつわりつく水鳥の影を凪いだ海に落としている。喋らずとも、指で示す数の仕草から日本仔と見破ったであろう老婆から桟橋で購入したカレー味の肉団子を口にしながら香港の食べ物は、どんな店で、何を注文してもうまいという説は嘘だと思った。二つ前の席で隣に座る男友達に絶えず話しかけている女が時々こちらを伺う。カメラだけを手にして観光スポットを外れた地へと向かう男はここでは注視を浴びる存在か。右手に見えていた大嶼山の島影が後ろへと去ると、船は大きく左へと旋回し数分後には南Y島の最初の寄港地に停泊した。
下船し野外活動の集団の後を追うように通りを歩く。路上に水槽を並べ、通りをはさんでテーブルを設えられた海鮮料理店といえば聞こえのよい何軒かの店をすぎると、家と家の隙をかろうじて縫うほどに、通りは狭くなり曲がりくねり枝分かれする。仄暗い家の中を伺い知ることはできないが、中から見られている思いがする。前を歩いていた集団の声がいつの間にか遠のき、振り返ると犬が一匹駆けて来た。『狗』は六声のうちの第何声だったのか思い出そうとしている間に犬は吠え立てるでもなく走り去っていった。静まりかえった路次を先ほどの犬が消えていった方角をめざすと少年の喚声が聞こえてきた。家並が途絶え突然開けた路次の先に広場があり、少年が数人サッカーをしていた。見回すと堤防越しに海が臨まれ、見据えるように叢祠があった。天后廟だった。一間ほどの間口に立ち薄明の院内にむけてカメラを構えたが、撮影を咎めるかのように咳払いが響き、諦念した。少年の一人が発したものか、あるいは廟を預かる住人のものか、サッカーをやめじっと成り行きを見守っていた少年達の表情からは判別できなかった。
それ以上散策することを諦め戻ることにした。写真撮影を生業としながら、いつも出来ずにいることがある。撮られてほしくないと思っている人間にカメラを向けられないのだ。参道の物売りに辟易しながら、ようやく辿り着いた黄大仙の境内でもシャッターを押すことはなかった。
港の近くまで戻ると海鮮料理店の前で店の男が『先生、先生』と、水槽を覗いている三人連れに声を掛けている。「これにしようか」「そうだな」水槽を指差し、日本語で三人の男達は喋り合っていた。「すみません、日本人ですか」との問いに年長と思える一人が、怪訝そうに「そうだけど」と返事をした。「よろしければ、ご一緒させていただけますか」顔を見合わせている三人のなかで「いいですよ」と同じ男が言葉を返した。
丸テーブルを囲み生力牌と数品をそれぞれが注文する。尋けば彼等は南Y島の発電所に赴任する九州の重工業の上司と部下達だった。
---日本人は何人ぐらいいるんですか---
「200人ぐらいいるよ」数の多さに驚いた。
---具体的にどんなお仕事をなさってるのですか---
「まあ、いろんな部門の管理をしているわけだけど」食事をしながらのとぎれとぎれの質問におもに上司が答える。
---香港にはどの位、おいでなのですか---
「普通一年。長くて二、三年」
「クリスマスまでにはと思っていたのですが来春には帰れそうです」年下のひとりが答えた。
「ところで、カメラ持ってるけど、仕事で来てるの?料理の写真撮ったりしないの?」
---別に、仕事で来てるんじゃないんです。でも、この海老は美味しい。それとこのレタス入りのチャーハンも---
「この島までは日本人は滅多にこない。でも最近はいろんなとこに日本人がいくからね」
---休みにはなにをなさってるのですか---
「きゅうりゅういったり、セントラルいったりして、買い物や、それに酒飲んでカラオケやったりしてる」
--日本の歌ですか---
「もちろん、デパート行けば日本のビデオもあるし、日本酒もあるしなんでもある」
---香港の歌とか、言葉とかわかりますか---
「別に知ろうと思ったりしない、ここの言葉は中国語とは違うんだってね」
彼等が香港を触ろうとしないように、私も彼等の生活にわけいる事はできないと思った。店の男に指でバツをつくり「埋單」を知らせる。注文した品の支払いを済ませ桟橋へと向かい停泊中のフェリーに乗船した。
夕暮れが迫ってくる。出航が間じかにせまり、バーベキューを終えた集団が急ぎ乗り込んでくる。かつてはカセットコーダーであったバーベキューの必需品がCDラジカセに替わられている。レコード店にもCDがだいぶ増えた。そういえば蘭桂坊のロック専門店で、香港製のクリスマスソングがあるかどうか聞いてみたが『NO』と言っていた。ついでに「樂隊愛在(Band Aids)」の『Do They Know It's Clinic ?』ならあるかと尋ねたら、露骨に嫌な顔をされた。この地を侵略した女王(queen)の死をかれらは悼んでいるのであろうか。
バーベキュー集団のラジオから「黄耀明」の『淫紅塵』が流れてくる。存在の有無を自問し続けている逹明一派。黄耀明のソロは逹明一派と掛け離れている。インド音楽を基調とした『淫紅塵』には逹明一派の音楽の根幹をなしていた西洋のエレクトリックポップの片鱗すらうかがうことができない。それにしても今、何故インド音楽なのか、必然性が見当たらない。ソロアルバムに収められた曲のすべてを聞いてみなければ判断できないが、ひょっとして黄耀明はDICK LEEを目指しているのであろうか?
下半身のほうからえぐるように響いていたフェリーの轟音が、さほど気にならなくなると、僕は牌酒のせいか少しまどろみかけていたが、林子祥が日本人カメラマンを演じた映画『投奔怒海』を制作した許鞍華監督に先日質問したことがらを思い出した。
---『今夜星光燦爛』というあなたが監督された作品と逹明一派の同じ題名のソングとではどちらが先だったのですか?
監督はこう答えた「私の映画のほうが先だと思います。なぜなら、あの作品のなかに逹明一派の『今夜星光燦爛』は挿入されていませんし、また撮影当時『今夜星光燦爛』という曲は私の頭の中にはありませんでした」と。同じ質問を劉以逹にしたことがある。彼は映画の題名の件には触れずに「あれは、あの当時の香港の雰囲気を歌ったものだ」と答えた。劉以逹に質問を行ったのは6・4の翌年の事であり、彼はことさらにあの当時ということで6・4を強調したかったのではないのか。
船は大きく旋回しようとしているのか、船底のほうから「ゴグン、ゴグン」と縦に響くような揺れで目を覚ました。見上げると、もうすっかり暗くなってしまった夜空の下、ビクトリアピークから海岸に至るまで広がる街明りの巨大なクリスマスツリーが輝いていた。(了・1999年1月30日加筆)
おかしな石を持っているという話は香港在住の彼と東京で出会った1987年から聞いていた。摩羅上街で手にいれたこぶし大のその石は夜光塗料が塗布してあるわけじゃないけど暗闇で輝くんだ、と彼は互いの仕事である写真撮影の話しがはねた後、言葉密めて僕に話した。身に災難が起こりそうになると、ことのほか光り輝く。女にふられる直前には、みごとに輝いた。これは動物にも植物にもないパワーだ。すると分けもなしに笑い出してしまうんだ。これはかみさんにも内緒だよ、TOP SERCRET だよ、と言いはった。もっともその頃の彼とは、まだ1997年を笑い飛ばせる年月ほどに遠くに位置する間柄だった。いつもの香港人の大袈裟な作り話との領域を越えるものではないと思い、僕は「石は、遺志に通じるからね、死ぬ気になったら見てもいいな」と話し半分に取り合わず「I WILL」と言い放った。
異変が起こったのは1989年だった。6月の最初の月曜日に、急いたように中国語で綴る彼の手紙が届いた。細部までは解読できなかったが、石が突然大きくそして輝きだした、見に来てくれとあった。僕は無視した。そして回答を出すまでに1年をかけ、石によるモニュメントを題材にポストカードを作成し彼に送り付けた。それは砂上の石像と私と家族の記念写真だった。
今度は彼が沈黙した。2年がすぎ、彼から、写真スタジオをオープンしたので遊びに来いとの招待状が手元に届く。ひやかし半分に、家族ともども5年ぶりに訪港した。招き入れられた彼のスタジオには両手にも抱えられぬほどに成長し光り輝く石が盤上に鎮座していた。囲むように、我が家族が微笑み、彼が笑い、ぼくも力なく笑った。6月の最初の金曜日のことだった。