-----ポップスマニアに願う!-----

60s

教えて!!「Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band」が発表された1967年前後のポップスCDのありか

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連載ポップ小説「AMラジオの時間」 

はじめに……

 僕と西洋音楽との出会いはAM(Amplitude Modulation)=中波放送のラジオを深夜に聴くことからはじまった。深夜は、はじめは午後11時であり、やがて0時を経て、午前1時以降まで領域をひろげる。僕は高校生のある時期、ローカル局の深夜放送の音楽番組にハガキを投稿し続け、ゲスト出演を果たし校内で一躍有名人となった……。

 そこまでの過程を僕が大好きなポピュラーソングやポップス、ロックと共に語れるのは僕にとって二度ともどれない過去を追体験できる意味で無情の喜びとなる。あくまでも、僕のなかでだけの喜びだけれども……。


「AMラジオの時間」(1) イケヤ セキに導かれ

 小学生の私は、兄弟という肉親からの影響を持ち合わせないために、鉱石ラジオの作成をもってアメリカやイギリスの音楽を得た。夕食時に茶ダンスに鎮座する7球スーパーのラジオから西洋の音楽が流れることはなかった。若山彰や、藤島健夫、美空ひばり、島倉千代子ばかりが流れていた。

 11時は深夜だった。母の寝る夜具の隣で私は息をひそめ、乾電池と豆電球を繋ぎ止めて置いたビニール線を精いっぱい伸ばす。伸ばした右手に畳の目がひんやりとする。ビニール線が私と西洋を繋いでいる。たばこの箱ほどもないラジオのシャーシを左手に握り、指先でバーアンテナのつまみを静かに滑らす。「きゅる、バリ、ガリリ、じゅくジュク、・・・日立・ギュル・・グル・ミュージック・・イン・ジュグジュグ・ハイフォニック・・・こんばんは、・・バルバリ・・・金内吉郎です、今夜のミュージック・・・イン・・ハイフォニックは枯葉・・・季節・・・で・・・・」「夏の思い出」に似たテーマソングにナレーションがエコーを伴ってはじまる。人体の皮膚に似せた捻れたコードと耳垢の付着が顕著な透明の装着部を持つクリスタルイヤホーンで私は私だけの時間と音楽を獲得した。コリーンラベットやマージョリーノエル、バリーサドラーを知った。中学1年の秋のことだった。

 聞き始めは、ジョニーティロットソンもクロードチアリも西洋の音楽として吸収されたがやがてそれらは私の好きな音楽の範疇の中心には位置しなくなった。

 ビートルズを聴いたからだ。やがて沢山のバンドを知った。イギリスにはウォーカーブラザースやローリングストーンズがあった。「孤独の太陽」や「アウトオブタイム」が好きになった。アメリカにはビーチボーイズがいた。ベンチャーズには乗り遅れた分、興味をもてなかった。中学の教室でほうきを手にしてノーキーエドワードの振りをまねる奴を嫌った。私の好きな音はもっと違った物のはずだと言う意識が芽生えていた。

 それは、小学校の時プラモデルのメーカーのなかで、マルサンやイマイを嫌う意識と共通していた。フラップや昇降舵さえ動かないプラモはどんなに高価で大きかろうが大嫌いだった。72分の1のスケールでもちゃんと細部まで、リベットやピンの形まで浮き上がり、風防が透明で可動するモデルを愛した。着艦フックが入出するエルエスのゼロ戦21型は私が最も愛したプラモデルだった。

 やがてリバプールサウンド、ウエストコーストサウンドといった具合に、国よりももっと細分化された地域の音楽として沢山のバンドがより分けられた。

 それらは元素記号や星座の位置と同じように私の中で重要な物となり、好き、大好き、まあ好き、といった評価のもとに沈殿する。光電管やイケヤセキ彗星は知っていた。1965年秋、私はカナリヤの餌となる、はこべを摘みに自転車で群生する空き地まで数日おきに朝ペダルを踏んだ。途中、国鉄の鉄路を跨ぐ陸橋のはるか先に彗星は、瞬いていた。('98年7月16日・記・つづく)

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「AMラジオの時間」(2) 不良の求める音楽を求め不良となる

商店街の子供たちは、金があり、たやすくレコードを手に入れていた。

 当時、ビートルズは不良の聴く音楽といわれていた。私は、ビートルズの新譜を聴きたいが為に、それまでほとんどつき合いのない先輩の家も訪ねた。先輩は私の在籍する中学でかつて番長だった。

 先輩は番長のころ、私の家の近所にいた。先輩の家は手渡された地図によれば中学への通学路である××小路と呼称される小さな商店街の○○菓子店の横の路地の奥だった。一学期の終業式の日、私は先輩から呼び出しを食らった。「話があるがら、あした先輩のうぢさこいどや」と前日の下校途中に、同級生に地図を渡されていた。同級生はその先輩の配下にいた。思えば、同級生は私をやや悔しげな、しかし足下まで見下ろす視線を投げていた。

小学校の時、その○○菓子店で私は円筒形のパッケージのチョコを買い求めることが何度かあった。それを繰り返すうちについに円筒形の封を切ると、世界最小本と称される豆本が封入されていた。その豆本には世界の最大・最小・最高の記録が記載されていた。すなわち、赤いライオン号、シンプソントンネル、U-2型、ビジャエン海溝、ゴンドワナ大陸、チータ、ピグミー族、など。それらはすべて部門別で世界の最大・最小・最高の事象とあった。私は、世界最小本をついに入手したのだった。

 しかし、私はその後菓子店は嫌った。なぜなら私は中学からの下校途中、店主がネズミ捕りに掛かったネズミを捕獲器ごと水槽に水没させ、もがくさまを笑みを浮かべながら眺めている光景に何度かあったからだ。夏休みも近いある日、私はその菓子店が外装を新たにした時に、入り口に施したセメントに靴跡を残した。立入禁止のテープを跨ぎ、ぶよぶよとしまだ固まっていないセメントを思いっきり踏みつけたのだ。ズックの底が沈みくっきりと跡が残った。それは、数日前のことだった。

私は、先輩がその菓子店の息子ではないことを念じ路地に入った。

立て付けの悪い引き戸を、音をなるべくたてないようにこじ開けると、土間の向こうに先輩はいた。半袖のシャツ姿は、中学の制服のままだった。

「よぐ、きたべ。あがれ」

---おじゃまします。

私は、掌に汗をにじませ、6畳一間ぐらいだけの家に入った。

先輩は、言った。

「おめ、ビートルズ好きなんだべ、おれも好きだ。んでもしゃ、なにいってんだがわがんねんで、ほんやぐして欲しいのしゃ」

---はい

「ばが、おめ、もででぐねえが、べ××ょ、しでべ。べ××ょ、やりでべ」

---はい

「んでも、今日はあづいがら、せんぷうぎ直せ、おめなら、でぎっぺ。べ××ょの話はそのあどっしゃ」

---わがりました。

どうやら、菓子店の事を糾弾されているのではないことがわかり、少々気楽になった。その余裕で見廻せば、壁には、アワワールドに出演し「愛こそはすべて」を歌うビートルズのポスターが貼ってある。

この不良の先輩は実はビートルズが好きだったのか? とにかく、先輩が今日、私を呼んだ目的は、アレではなかった。

その日、私は一度自宅に帰り、半田ゴテを手に先輩の家の扇風機を修理した。

そのあいだじゅう先輩はラジオから録音した「ミュージック・イン・ハイホニック」のテープを聞かせてくれた。それは、初めて聞くビートルズのアルバム「Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band」の一部だった。

その後、先輩とはしばらく会わなかった。次に会うのは先輩が繁華街に引っ越し、もっと不良としての成就をしてからのことだった。

('99年2月17日・記・つづく)

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