|トップページに戻る|    |Macのメインページに戻る|
シーグラフ殺人事件
(1)

 上司から、アメリカで毎年8月に開催されるコンピュータグラフィックスの博覧会の視察命令が下ったのは、7月上旬の事だった。毎年社内の誰かが視察と言えば聞こえのよい、いわば出張をかねた骨休めに赴く。そしてやっと俺にもおはちが廻ってきた。社内で下る視察はこれで7回目。俺は20人たらずのポストプロダクションの上から7番目の地位に君臨しているということか。 俺がこの会社に就職したのは、およそ20年前。学生時代にそれまで何度か経験したバイトの一つと思い門戸を叩いたまま現在に至っている。さほど待遇が良かったという訳でもないが、出勤時間や退社時間を気にしなくても、仕事さえなんとかこなせられれば文句を言われることもなく給料がもらえるとあって、自分でも信じられないくらいに長続きしている。過去の経歴を問われることなくアルバイトの延長で正社員に採用されたことにも一因はあるが。 もっとも、その間に恋もしたし、あげく10年前には結婚し一児も設けた。いまさら露頭に迷うわけにはいかない。 俺が入社した当時は、主に出版関係を手がけていたこの会社もその後テレビの仕事やビデオ出版にも手を出すようになり、数年前にはビデオの編集室なども開設、コンピュータグラフィックスによるコマーシャルも始めている。時代の趨勢にマッチして発展をとげているいるのかも知れないが、どこかで経営者が方向転換を行ったという話を、この博覧会視察が始まった頃に聞いた。 どちらにしても、アメリカの地を踏むことは俺にとって始めての経験であり、依存はなかった。 俺は、新婚旅行で香港を訪れたことはあるが、海外旅行はそれ以来だ。

 ところが1週間のスケジュールをなんなくこなし、いざ帰国を目の前にして、俺は困り果てている。パスポートを盗まれたのだ。いや、正確に表現すれば、パスポートの入っているはずのキャスターがすり替えられたのだ。「スリには気をつけろ!特に空港では!」とのツアーの添乗員の警告を守り、わざわざパスポートを肌身から離しキャスターにしまい込んだ行為が間違いだったのか? いずれにしろ俺は今、パスポートを持たないままにコンピュータグラフィックスの博覧会が開催されたロサンゼルスの国際空港の出発ロビーにいるのだ。  数分前、俺は「中国人や日本人を対象にアンケートをとらせてもらっています」とにじりよってくる男を振り切りキャスターを引きずりながら、トイレにかけ込みその後スタンドバーでビールを飲み、免税店で会社への土産にと酒を買い、出発カウンターでチケットを手にした。 そして、いざ帰国便に乗り込もうとしてキャスターを開けてみると、パスポートがない。いや、それどころか、キャスターがすり替わっている。ホテルからここまでを反芻してみるが、異常はなかった。 ロスの空港は成田と比較するとおかしな事だが一度もパスポートを提示せずに、出発カウンターに到着できる。このままパスポートなしで帰国便に乗ることも可能だが、それでは成田に到着後日本に入国できないはずだ。キャスターがすり替えられたのはホテルを経つ以前ということなのだろうか。 日本から総勢60名の視察団が組まれ、その3分の2に当たる40人が帰国、のこり20人はサンフランシスコで会社訪問と、二手に分かれ、この1週間で知り合った者同士さよならのあいさつをする中でが、俺はひとり焦っている。

 佐藤が近づいてきた。

「かげぼしくん、どうかしたのかい。さっきからの君を見ていると、どうもそわそわしているみたいだけれど、なにかあったのかい?」

---いいや、何でもない。

「そうか、じゃ僕はシスコへいくという事で、東京でまた会おう」

 そう言うと佐藤はサンフランシスコへの出発ゲートへ消えていった。 佐藤にだけは、この失態を知られたくなかった。

佐藤は、現在飯田という姓を名乗っているが俺にとっては、佐藤でしかない。佐藤は高校の同窓生だった。俺はかつて東北の地方都市SのS高校に在学していた。俺はS高校を卒業したが、彼は在学中の出来事によって、S高校を去った。それ以来音信は全くなかった。 再会は偶然だった。佐藤は俺と同じ視察団の一員だった。俺は一週間前の夕刻に成田を出発し、当日の朝ロスに到着、休む間もなく展示会入場の登録を済ませ、ホテルに戻る。8月のロスは午後8時を過ぎても、夜は訪れないが、なんにしても夕飯をと、近くのレストラン街を散策する。英語を話す事を苦に思わなかったが、最初の晩であり、異邦に一人との心細さから日本語ののれんのかかる居酒屋を選んだ。カウンターに身をよせ、定食の「鶏の照り焼き弁当」を注文する。付きだしのキャベツにたれをつけ摘み始めていると背後から声がした。

「かげぼしくん、かげぼしくん、おひさしぶりだねぇ。」 俺は、ぎくりとした。「かげぼし」とは俺のここまでの人生のある一時期にしか呼称されたことのない渾名だった。しかも俺にとっては汚名にあたる渾名だった。 振り向くと佐藤がいた。この25年間で白髪混じりの風貌以外全く変わることなく俺の背後にいた。「となりに、座っていいかな?」俺はいいよと返した。 

   *  *   *

 佐藤と最初に話をしたのは、高校2年の冬のことだ。 その日の昼過ぎ、俺は県庁近くのK公園の野外音楽堂のステージに向かって円弧を描く長椅子の一つにぽつりと座っていた。この椅子に座ったのは初めてだった。これまで、通りすがりにみるこの音楽堂はアベックの寄り添う場所であったり、県下のさまざまなブラスバンドの公演の地であったりした。 数日前に降り積もった雪が融けず、黒土の所々に汚点のように白が残る。痔病の患者が安静を求めおそるおそる座布団の一番やわらかそうな位置に尻をおとすかのように鉄製の長椅子に腰を降ろす。 しかしじきに冷気が尻に伝わる。やがてバスケットシューズの底からも冷気が這いあがり膝も震えだす。セーターの上にジャンバーまで着込んでいるが、上半身にも冷たさが伝わってくる。ポケット突っ込んだ両手を数分おき取り出し真新しい軍手をはずしては、指先に息を吹き込んでみるが、それでも震えは収まらない。

 1970年2月11日の日差しは時折薄墨色の雲の切れ目を縫って舞い降りるが陽の陰影を刻むには至らない。 ヘルメットを固定するために顎を押さえつけている紐のストッパーを上下させ、目元から顎までを覆い隠すタオルを喉元で結び直す。 ヘルメットは前日T大のサークル室から盗んだ。高校の校庭の4倍はありそうなT大教養学部のグラウンドのすみに寄り添うように設営されたサークルのプレハブ小屋のひとつ、ワールド研究会の片隅に幾つか重ね挙げられている黄色のヘルメットを盗んだ。サークル室の扉に鍵はかかっていなかった。プレハブの扉の内側にはスプレーで「この外に俺は世界を閉じこめた」と描かれてあった。俺は、俺にいわせれば不条理に研究会内部に封じ込まれ黄色にスプレーされたヘルメットを解放したのだ。ヘルメットは俺のナップザックの内部に解き放たれた。そして俺は解放されたヘルメットと共にT大正門前のバス停からバスに乗り込み、自宅近くの停留所をふたつ過ぎた放送局前で降車した。 反革命の奴等に罪はある。ならば革命を遂行するに罪はない。革命的に俺は正しい。俺は革命の一端を担ってヘルメットを獲得したのだ。革命の隊列の一翼を担っているのだ。

('99年3月16日記 以下次回・なおこのお話はフィクションです)

上記の作文についてのご感想はartmania@air.linkclub.or.jpまで。


|トップページに戻る|    |Macのメインページに戻る|

 

シーグラフ殺人事件(2)

 その日時を、特定することは出来ない。まだ、夏の名残の照り返しが夕暮れ過ぎの繁華街を制する初秋のことか、或いは蒸せ返るほどの人々の隊列がそこだけ熱く舗道を支配していた晩秋のことなのか、はっきりとは判らない。ただ、思い出せば、耳たぶや顳かみがジリジリと熱く上気する感覚、恥ずかしさと屈辱が同居し、喉がからからに乾く思いが甦る。

 その日、俺は、数人の級友と連れだって、片平の東北大学から、勾当台公園へと向かうデモ隊を東一番丁通りで見ていた。

特にシンパシーを覚えたわけでもなく、ただ漠然と見に行きたかった。周りの状況を思い出せば片平の教養部はバリケードによって封鎖されていたが、東大や京大などに代表される国立大、そして学院大などを含めた多くの大学でバリケード封鎖は当たり前の風景であった。

 

 当時、我が家には電話はなかった。電話が施設されたのは、その2年後のことだ。 それが休日の夕暮れの出来事とすれば、前日に級友と意志一致をしていたのであろう。平日であれば、放課後連れだって東一番丁へ向かったのであろう。しかし、今やそのことすら思い出せない。制服を着用していたのだが、当時三高は休日でも制服の着用が義務づけられており、その日が平日であったとの根拠にはならない。俺達は全員制服である学生服姿でデモを見ていた。

 デモ隊は、かなり大がかりであった。片平を出た隊列は、ジグザグを繰り返しながら、交差点では渦巻きデモを始める。東北大学の教養部や、専門部の部隊から始まり、宮教大や学院大の隊列がそれに続く。後続はまだ片平を出発していない。

 俺は人数の多さに感動していた。

「すげえなぁ」これが、恐らく俺が発した最初の言葉だった。

 その言葉は、反戦思想に共鳴して口からこぼれたとか、当時、頻繁に教室の机に忍び入れられたビラの内容に共感を覚えて出てしまった、というたぐいのものでは、全くなかった。もっと原初的な、こんなに沢山の人がデモするのを見たことがない、といったたぐいの感動だった。

 ヘルメットを被ったデモ隊が腕を組み、くっつきあい、蛇行しながらも前に進む。その前を行く警察の先導車から発せられる警告の言葉がアーケードに覆われた通りに反響する。 多くの店舗は閉鎖している。デモの隊列の横を行くハンドマイクがシュプレヒコールをがなり立てる。形容しがたい大きなうねりが、東一番丁の風景を日常とは全く異なったものに変えていた。俺は、いつしか制服姿の自分が恥ずかしくなり、せめて学帽だけを掌の中に小さく折りたたんでしまった。

「すげえなぁ」

 俺達は、デモ隊に寄り添うように舗道を歩きながらも、少し速度をゆるめる。デモ隊の全貌が見たかったからだ。やがて広瀬通りとの交差点近くにさしかかる。級友の一人が俺に「みろ、あそご○○さんでねえが」と後方から来る50人ぐらいの隊列を指さした。みれば、○○高協と染め抜かれた旗が先頭で揺らめく高校生の隊列があった。

 その最前列に、横にした竹竿を軍手で握りシュプレヒコールに合わせ言葉を発し体を上下させながら前進する3年生の先輩の姿を見た。彼は生徒会の役員であった。制服姿ではなくヘルメットに色のついたのシャツを纏っていた。多少うつむいて顔を隠すかのようには見えたが覆面で顔を覆ってはいなかった。けれど指摘されなければ気づかないほどに校舎でみる姿との隔たりがあった。左右でスクラムを組む人物は覆面でわからない。

- - -ほんとだ、○○さんだ  と、俺は、しばし立ち止まり、過ぎゆく隊列を見続けていた。三高生の姿は彼以外みとどけられない。

 突如「イソウッ」との声が、右の方でした。顔を向けると、人差し指を俺の頭部に向かって突き立てている背広姿のY先生が間近にいた。Y先生は授業中は白衣を纏う1年の時の担任だった。

「異装」無帽の俺に向かってそう発したのだとわかった。口元を「う」の形に半開きしたまま、先生は俺を睨み付けていた。その眼にはあからさまな拒否の眼差しが宿っていた。そして、その後振り上げた腕を徐々に降ろしながら、しかし何も言わなかった。俺は喉が乾いた。口の中がひりひりする。1年前の担任時に「おめ、よっぽどがんばんねと、大学さ入いれねぞ」と試験終了の度に俺に発していた口から今、出た言葉が「異装」だった。

 俺は口ごもった。反論すべき言葉など持ち得なかった。校則違反のみで俺は攻められていた。非は一方的に俺にある。なにせ、制服を着用しなければ外出は許可されていなかったのだから。

 しかし、と俺は思う。俺は、その年の9月末、三高の生徒会長選挙の立ち会い演説会で、生徒会長に立候補した俺の級友の応援演説をしていたのではなかったか!

 というのも、俺はその時、代議員であり、この年に会長制度が崩壊し代議員制に移行するのだが、俺は、会長制度の廃止をいつかの時点で謳っているのだ。

 

 つまり俺は、応援団に身を置く級友が先生の推薦のもとで生徒会長に立候補を余儀なくされ、他に立候補者がないままに、立ち会い演説会が開催された時には学校、いわゆる体制側に身を置いていたのだ。

 当時生徒会長の選出は、後期のスタートにおこなわれていた。俺は、先輩である3年生の意識がどのようなことに向けられているかも判らずに、級友の要請のまま、立ち会い演説会で、応援演説を行った。体育館の演壇にたち、原稿を読み上げる俺を、3年生が糾弾する。怒号、ナンセンスの渦まくなか、指標もなく級友の人格の説明に演説は終始した。Y先生、あなたは、そんな俺に安堵し無表明の支持をしたのではないのか?

 

 70年前後の時代を語るとき当時はあんな時代だったからと絡めとじることはたやすい。

 俺は、翌年の2月にはヘルメットに覆面姿の反戦派高校生となった。俺はそれを恥じないし、誇りにさえ思う。恥じるのは、校則に反したことのみで俺を糾弾し「おめ、なんで、デモみに来たんだ?おもしぇがらが?おれはおもっしぇぐねえぞ」といった先生らしい言葉を教え子に一言でも掛けなかったY先生の方にあると俺は、いまでも思っている。