連載にあたって・・・

 私は1952年生まれです。私は「MoonRiders」をこよなく愛しているのですが、近頃同世代の友人と「MoonRiders」について話す機会などなくなっています。
 私が20代の頃「はちみつぱい」や「MoonRiders」に傾倒していた友人達は今どうしていると思います? 彼らは例えば「あがたと奏ってたころはよかった」とか「テクノなライダーズは嫌だね」とかいいながら結成10年を前に戦列を離脱していったのです。
 私にとってそんな彼らのことはどうでもいい。
しかし最近若い複数の友人から私が10代だったころすでに存在していた「はちみつぱい」や「MoonRiders」とのかかわり、当時の時代の雰囲気、街の雰囲気、その頃の生活について伝えて欲しいとの発言を得たのです。
 私は鈴木慶一さんに認知されてはいないと思います。しかし、この二十数年間の間に何度か出会い言葉を交わしています。1972年から今日までの私の慶一さんとの出会いを語ることで、このホームページを訪れてくれた「MoonRiders」マニアのあなたと私の密やかな「至福」の時を以下の小説によって共有できれば幸いと思っております。
 尚、なにぶん昔のことゆえ、登場人物名など事実とは多少異なる表現があることはお許し下さい。 しかし大幅に逸脱してはおりません。

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<<連載>> 明朗ロック小説

「マニアの至福〜鈴木慶一さんへの手紙」

第1回


「夜のムーンライダーズ」の夜に
1996年1月18日 

 本日(1月18日)渋谷公会堂で「夜のムーンライダーズ」コンサートを観ました。その場で手渡された沢山のチラシのなかの1枚に慶一さんのインタビューが掲載されていて、それによれば(慶一さんは)必ずお手紙は読んでいるという事なので、勇気を奮って、ファンレターを書きます。始めて書くので今までの思いを一挙に書きます。長くなると思われます。

 生きて動いていることの証ですね。ムーンライダーズのCD聴いたり、コンサート観に行ったりすることは。とりあえず、まだ生きていて闘病生活を余儀なくされるわけでもなく、チケット代にも困窮する生活を強いられるわけでもなく、ムーンライダーズを聴いたり観たりすることが可能な環境に今もいられるんだみたいな。
 で、慶一さんにこれから私が慶一さんやムーンライダーズのメンバーのみなさん、そしてあがたさんと出会った何度かの事柄を認めていきたいと思います。



1973年冬・・・

 1952年生まれの僕は、10代のおしまい、つまり70年代の初頭から日本のロックを聞き出しました。はっぴいえんどや遠藤賢司から始まって、あがた森魚やはちみつぱいを知って、はちみつぱいが池田光夫さんと共に演奏を務めた71年12月25日発売の歌絵本「赤色エレジー」の限定版を持っています。
しかし、はちみつぱいのアルバムは1973年11月25日まで待たなければならなかった。
 それまでは1972年にNHK の「わかいこだま」で放送された「土手の向こうに」と「煙草路地」を何回も聴いていました。アルバムを聞いたときアレンジが違っていることに気づきました。
けれど、アルバムの発売前にはちみつぱいのメンバーと会うことができました。73年の2月のことです。場所はS市で、電力ホールなるコンサート会場で、あがた森魚と山平×彦のジョイントコンサートがあって、リハーサルから公演に至る間に何故か僕は、はちみつぱいの数人とあがたさんと一緒に会場近くの繁華街を歩いていて、それからお汁粉屋に入りました。4人掛けのテーブルふたつに分かれて座ったような気がします。
 僕が座った席の真向かいがあがたさんでした。もちろん初対面です。あがたさんに何を話したのかは覚えています。当時S市のベ平連から姿を消した友人が「俺は函館ラサールの出身だ」と言っていたので、彼を知っているか尋ねたのですが、あがたさんは知らないと言っていました。
 当日のぱいの人員構成は覚えていませんが、僕は憧れのみなさんをまわりにして、ドキドキし話題に事欠き、たしかその日、自宅で作ったチャーハンの出来がよかったので、その事を話したら本信介氏に「こいつはアホじゃないのか」みたいな表情をされました。
 会場に戻って楽屋にいると、しつけられたスピーカーから、あがたさんの歌声が聞こえてきました。僕はチケットがなかったのか、席に着いて演奏を聴けなかったのでしょう。ただ、山平×彦が、あがたさんの歌が流れるや、うるさそうに楽屋のスピーカーに帽子を被せていたのです。
 やがて山平×彦の出番となって彼はステージにあがるや「あがたもりざかな」がどうのこうのと言った後「放送禁止歌」なる歌を歌い、それも帽子を被ったスピーカーから聞こえてきました。帽子のつばが共鳴してぶるぶる震えました。
 コンサート当日のその後のことは覚えていません。多分家庭の事情というより僕自身の境遇で帰宅を余儀なくされたのでしょう。僕は二浪の受験生でしかも大学受験は目の前でした。
 けれど翌日の夕刻、見送りにS駅まで行きました。あがたさんやぱいに加えて前島邦明氏もいました。前島氏に雑誌『都市音楽』の話をしたとき「こんなところで『都市音楽』の話をされるとは思わなかった」と言われたました。 小島武さんが表紙を描いた『都市音楽』にはジャズの評論などに加えて、はちみつぱいやはっぴいえんどを擁する「風都市」を核とした座談会なども掲載され、日本語ロックや東京にあこがれる僕にとってとても刺激的な内容でした。東京で興りつつある「風都市」の存在そのものが大阪ではじまったURCとはまるで違った音楽文化の始まりに思えてならなかったのです。
 僕は、あがたさんにお土産にと明治チョコを手渡しました。彼の大学が明治だったからでしょう。あがたさんはニッと笑みを浮かべ「また会おうね」と言いました。
 
 その1カ月後、僕も明治大学に合格(第二文学部)して東京での暮らしが始まりました。
 そして明治大学の入学式の日に、僕はまた、あがたさんと会うことができました。
会えた感激もつかの間、僕にとっての東京での最初の悲劇が待ちうけていました。
(97年2月6日記・以下次回)
 

-第1回 了-

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