連載にあたって・・・

 私は1952年生まれです。私は「MoonRiders」をこよなく愛しているのですが、近頃同世代の友人と「MoonRiders」について話す機会などなくなっています。
 私が20代の頃「はちみつぱい」や「MoonRiders」に傾倒していた友人達は今どうしていると思います? 彼らは例えば「あがたと奏ってたころはよかった」とか「テクノなライダーズは嫌だね」とかいいながら結成10年を前に戦列を離脱していったのです。
 私にとってそんな彼らのことはどうでもいい。
しかし最近若い複数の友人から私が10代だったころすでに存在していた「はちみつぱい」や「MoonRiders」とのかかわり、当時の時代の雰囲気、街の雰囲気、その頃の生活について伝えて欲しいとの発言を得たのです。
 私は鈴木慶一さんに認知されてはいないと思います。しかし、この二十数年間の間に何度か出会い言葉を交わしています。1972年から今日までの私の慶一さんとの出会いを語ることで、このホームページを訪れてくれた「MoonRiders」マニアのあなたと私の密やかな「至福」の時を以下の小説によって共有できれば幸いと思っております。
 尚、なにぶん昔のことゆえ、登場人物名など事実とは多少異なる表現があることはお許し下さい。 しかし大幅に逸脱してはおりません。


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<<連載>> 明朗ロック小説

「マニアの至福〜鈴木慶一さんへの手紙」

第1回


「夜のムーンライダーズ」の夜に

1996年1月18日 

 本日(1月18日)渋谷公会堂で「夜のムーンライダーズ」コンサートを観ました。その場で手渡された沢山のチラシのなかの1枚に慶一さんのインタビューが掲載されていて、それによれば(慶一さんは)必ずお手紙は読んでいるという事なので、勇気を奮って、ファンレターを書きます。始めて書くので今までの思いを一挙に書きます。長くなると思われます。

 生きて動いていることの証ですね。ムーンライダーズのCD聴いたり、コンサート観に行ったりすることは。とりあえず、まだ生きていて闘病生活を余儀なくされるわけでもなく、チケット代にも困窮する生活を強いられるわけでもなく、ムーンライダーズを聴いたり観たりすることが可能な環境に今もいられるんだみたいな。
 で、慶一さんにこれから私が慶一さんやムーンライダーズのメンバーのみなさん、そしてあがたさんと出会った何度かの事柄を認めていきたいと思います。



1973年冬・・・

 1952年生まれの僕は、10代のおしまい、つまり70年代の初頭から日本のロックを聞き出しました。はっぴいえんどや遠藤賢司から始まって、あがた森魚やはちみつぱいを知って、はちみつぱいが池田光夫さんと共に演奏を務めた71年12月25日発売の歌絵本「赤色エレジー」の限定版を持っています。
しかし、はちみつぱいのアルバムは1973年11月25日まで待たなければならなかった。
 それまでは1972年にNHK の「わかいこだま」で放送された「土手の向こうに」と「煙草路地」を何回も聴いていました。アルバムを聞いたときアレンジが違っていることに気づきました。
けれど、アルバムの発売前にはちみつぱいのメンバーと会うことができました。73年の2月のことです。場所はS市で、電力ホールなるコンサート会場で、あがた森魚と山平×彦のジョイントコンサートがあって、リハーサルから公演に至る間に何故か僕は、はちみつぱいの数人とあがたさんと一緒に会場近くの繁華街を歩いていて、それからお汁粉屋に入りました。4人掛けのテーブルふたつに分かれて座ったような気がします。
 僕が座った席の真向かいがあがたさんでした。もちろん初対面です。あがたさんに何を話したのかは覚えています。当時S市のベ平連から姿を消した友人が「俺は函館ラサールの出身だ」と言っていたので、彼を知っているか尋ねたのですが、あがたさんは知らないと言っていました。
 当日のぱいの人員構成は覚えていませんが、僕は憧れのみなさんをまわりにして、ドキドキし話題に事欠き、たしかその日、自宅で作ったチャーハンの出来がよかったので、その事を話したら本信介氏に「こいつはアホじゃないのか」みたいな表情をされました。
 会場に戻って楽屋にいると、しつけられたスピーカーから、あがたさんの歌声が聞こえてきました。僕はチケットがなかったのか、席に着いて演奏を聴けなかったのでしょう。ただ、山平×彦が、あがたさんの歌が流れるや、うるさそうに楽屋のスピーカーに帽子を被せていたのです。
 やがて山平×彦の出番となって彼はステージにあがるや「あがたもりざかな」がどうのこうのと言った後「放送禁止歌」なる歌を歌い、それも帽子を被ったスピーカーから聞こえてきました。帽子のつばが共鳴してぶるぶる震えました。
 コンサート当日のその後のことは覚えていません。多分家庭の事情というより僕自身の境遇で帰宅を余儀なくされたのでしょう。僕は二浪の受験生でしかも大学受験は目の前でした。
 けれど翌日の夕刻、見送りにS駅まで行きました。あがたさんやぱいに加えて前島邦明氏もいました。前島氏に雑誌『都市音楽』の話をしたとき「こんなところで『都市音楽』の話をされるとは思わなかった」と言われたました。 小島武さんが表紙を描いた『都市音楽』にはジャズの評論などに加えて、はちみつぱいやはっぴいえんどを擁する「風都市」を核とした座談会なども掲載され、日本語ロックや東京にあこがれる僕にとってとても刺激的な内容でした。東京で興りつつある「風都市」の存在そのものが大阪ではじまったURCとはまるで違った音楽文化の始まりに思えてならなかったのです。
 僕は、あがたさんにお土産にと明治チョコを手渡しました。彼の大学が明治だったからでしょう。あがたさんはニッと笑みを浮かべ「また会おうね」と言いました。
 
 その1カ月後、僕も明治大学に合格(第二文学部)して東京での暮らしが始まりました。
 そして明治大学の入学式の日に、僕はまた、あがたさんと会うことができました。
会えた感激もつかの間、僕にとっての東京での最初の悲劇が待ちうけていました。
(97年2月6日記・以下次回)
 

-第1回 了-

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「マニアの至福」第2回

73年4月、入学式当日の悲劇

 明治大学の入学式の日、中野公会堂で友部正人さんと三目の夜のジョイントコンサートがありました。友部さんは「中野の長いプラットフォームをキャベツが転がった」という内容の歌や「さすらい」や「長崎ブルース」を歌いました。まるで、「ガロ」に鈴木翁二氏が描くの漫画のようでした。
 友部さんが途中「何を歌おうかな」と自問したので僕は客席から「気違い女のために」とリクエストしました。すると友部さんは「そんな歌あったかな」とちょっと笑い、会場全体も「そんなうた、ともさんがうたうはずないじゃないか」と声の主を蔑すむかのようなようなざわめきが起こりました。やがて会場が沈黙に変わるころ「一本道」が歌われました。周りの聴衆がすべて拍手を送るなか、僕は身を固くしてうつむいていました。
 川べりにたたずみ行き交う男に「二千円でいいからさ」と声をかける女をうたった「気違い女のために」は確かに存在していたはずです。
 コンサートがおわり、もう絶対友部なんか聞いてやらないぞ、と思いながら中野駅に向かって歩いていると、あがたさんの後ろ姿がありました。僕はかけより「あがたさん」と声をかけました。僕のことを覚えていてくれました。それから中野駅前のゲームセンターでエアーホッケーのようなゲームをしました。運動神経のない僕にしては勝負は五分五分でした。あがたさんがわざと負けてくれたのかもしれません。
 そのあと国電で新宿へ行き、西口の小便横町の一軒に入りました。あがたさんとお酒が飲めるのです。2階にあるお店は混雑していて、僕たちはカウンターの席で窮屈にしていました。馴染みのお店らしく、店の人となにやら言葉を交わしています。
 あがたさんは、腰まで下がった麻のバッグに大瀧詠一のファーストアルバムの歌詞カードを入れていました。めざとく見つけた僕に歌詞カードをひろげてくれます。「みだれ髪」のページになにやらごちゃごちゃ書き込みがしてあります。直筆をみるのは初めてのことです。ごちゃごちゃした文字です。映画「僕は天使じゃないよ」に大瀧さんが出演するんだよ、と教えてくれました。
 僕は、今日が明治大学の入学式だったこと、しかしそれには出席しなかったこと、中野公会堂にコンサートを見に行ったことなどを話しました。
 当然あがたさんもコンサートを見ていたわけで「気違い女のために」の件が話題になったらどうしようかと思っていましたが、話題とはなりませんでした。
 テーブル席にひとり、コップ酒をあおりながら酩酊している40がらみのジャンバー男が、こちらにむかって「おかま、おかま」と連発しています。あがたさんに向けて発せられたのか、僕たち二人に向けての言葉なのかそれは分かりません。お店のひとが男に向かって「お客さん、みんなそれぞれで楽しく飲んでるんだからさァ、静かにしてよ」と言いました。男はなにやらいいたげでしたが、静かになりました。
 僕はその当時肩まで髪を伸ばしていました。あがたさんも長髪でした。学生の多くが、少なくても僕の友人のほとんどが長髪でした。
 二人とも大分酔ってきました。あがたさんはフェアポートコンベンションの話をして、ぼくはビーチボーイズの話をしました。「時計仕掛けのオレンジ」や「明日に向かって撃て!」の話もしました。
 僕はとても幸せな気分になっていました。二人の話題がやがて宮沢賢治や稲垣足穂に及びかけようとしているころでした。
 男がまた「おかま、おかま」と言い出したのです。
 これまでこらえていた情が一挙に吹き出したのか、あがたさんが「うるさいッ」と言って立ち上がりました。僕も立ち上がりました。(97年2月16日記・以下次回)

-第2回 了-

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「マニアの至福」第3回

73年4月、入学式当日の悲劇-2-

 コップ酒で二人とも5杯は飲んでいたでしょうか。落としても割れにくい分厚いコップに、なみなみとつがれた熱燗がコースターの替わりの受け皿に滴り落ちた状態で運ばれてくるのです。
 「おかま、おかま」との声にやおら立ち上がったあがたさんは、やはり立ち上がった僕に向かって、「出ようか?」と言いました。それからニイっと笑みをうかべ、少しだけ首を左右に振りました。(酔っぱらいは相手にしないほうがいいよ)と言いたかったのでしょう。
 店を出ると花冷えのなか、路上でサラリーマン風の男が中央線の下で立ち小便をしています。
僕もブルっと震えました。もう、12時近かったかもしれません。この日セーターの上にはなにも羽織らずにいたのです。ひとり、まだふとんのない数日前から住み始めた西荻窪の3畳間に帰るのかと思うと、とてつもなく寂しい気持ちになりました。
 あがたさんはそんな僕に気を遣ったのか「まだいいかな?」といってくれたのです。
「うん、まだいいよ」と僕。
僕たちは国電の新宿駅とは反対方向に歩き出しました。
ガードをくぐり靖国通りを渡り、駅へと向かいます。はしご酒かと思っていると、駅へと向かったのです。駅の構内は工事中で仮設の階段は踏みしめるたびにギシギシと音をたてます。ホームに「せいぶしんじゅく」とあります。新宿に新宿駅以外の駅があることを始めて知りました。停車していた電車に乗り込むと寒さが少し和らぎます。
 ほどなく電車は走り出し、あがたさんは黙っていました。この電車がどこに向かい、どこで降ろされるのか心配になってきました。酔った勢いで僕を連れてはみたものの、あがたさんはまだ僕と会うのは2度目なのです。僕はレコードを聞いたり、テレビで下駄履き姿で歌うあがたさんを見て知っているつもりでも冷静に考えれば、いちファンにすぎないのです。
 頭のなかでファンと言う単語が不安という単語に置き換わり始めたころ、電車は数回目の停車をしました。
「おりるよ」
僕たちは電車降りました。向かいのホームは終了しているようでした。改札へ向かう人影もまばらです。改札をでるともう僕たち以外には誰もいません。
 あがたさんは「でさぁ、ちょっと会いたくなった人がいてさぁ、すぐそばだから」といいながら、線路に沿った径を新宿とは反対方向に歩き出しました。数十メートルおきに線路を照らす水銀灯がともります。それ以外あたりは暗くひっそりとしています。僕たちの足音は闇の中に吸いとられていきます。酔いも冷めてきたのでしょうか、寒さが足元から這い上ってきます。それにしても十数分前にいたあれだけ喧噪な新宿からわずかの所でこれほど暗くて静かとは、と思いました。
やがて径は、ぼんやりと門柱が灯る二階家の前で終わりです。
 「ここのはずだよ」といって、あがたさんは呼び鈴を押します。二度三度と押します。僕は爪先を上下させ足先を暖めようとしました。 
 あがたさんは表札に目を凝らしているようでしたが、僕の目には文字が消えかかり判読できません。
「おかしいなぁ」とあがたさんが呟いていると階段をかけ降りるバタバタといった音して玄関に明かりが点り、ガラス戸に仁王立ちのように写った人影がうるさそうに言いました。
「どなたですか?」(97年2月23日記・以下次回)

-第3回 了-

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「マニアの至福」第4回

73年4月、入学式当日の悲劇-3-

「あがたです」と答えると、
「なぁんだ、あがちゃんか」という声がしました。その声には先ほどまでの怒りに満ちた感情は含まれていません。かわりに(しかたねえなぁ)といったあきらめのような響きが込められていました。
やがて、玄関が開けられ「どうぞ」と招き入れられました。これで、どうにか寒さから解放されます。
あがたさんが「今日からぼくの友達のまさとちゃんです」とぼくを紹介してくれました。
「そう」といってから「わたしは××です」との答えが返ってきました。ぼくはよく聞き取れなかったのですが、あらためて聞き返せない雰囲気だったので黙っていました。
「あがんなよ」と言われ、僕たちは部屋に通されました。
1階の客間は、灯を入れたばかりでしんとしています。
「ごめんね、急にあいたくなってさぁ、とっても会いたくなってさぁ」とあがたさんは、何度も繰り返しています。
家の人はそれには応えず、サイドボードからウイスキーを取り出しコップに注ぎました。サントリーオールドです。2000円もするオールドです。
僕たちは乾杯しました。ストレートでグッと飲み干すと咽がヒリヒリとしました。しかし本来高尚なはずの味はまったくわかりません。すぐに体が熱くなりました。心臓の鼓動も激しくなりました。けれどお酒でドキドキしているのではないようです。居心地の悪さからくる動悸のようでした。
家の人は一切話しかけてきません。僕は酔いが戻ってきて辺りがグラグラと揺れ始めました。それでも飲みました。それ以外に何もすることがないのです。
僕から切り出す話題などあるはずもなく、黙っていました。
さすがに、あがたさんも居づらくなったようです。
「帰るワ。また来るからさ。じゃ行こうか」と言ってあがたさんと僕は家を出ることになりました。僕は立っているのがやっとのようです。玄関を開けたとき家の人が「君、それじゃ寒いだろ」といってデニムのジャケットを僕に掛けてくれました。
「どうもすみません」と僕が答えたとき初めて家の人が笑みを浮かべました。
(ほんとは、みんないいひとで・・・)と、その時は誰が歌ったか思い出せない唄が浮かびました。

駅まで戻ることにしました。当然電車は終わっています。
「自動車で行こう」とあがたさんは言いました。運よく駅前近くでタクシーに乗り込むことができました。
「運転手さん、ゴールデン街まで」とあがたさんは言ったようです。あがたさんは車中で今訪れた家の人のことの説明をさかんにしていたようですが、僕は覚えていません。その後入った店のことも思い出せません。ただ、僕は店にいた誰かにからんだのか、「お前みたいなやつは出ていけ」と言われ店を追い出されました。別の誰かが「駅どこかわかる?送っていこうか?」と声を掛けてくれたのですが「うるさい、駅ぐらいわかる」といってその人を振り払ってしまいました。まだ夜は明けていません。
その後ようやくたどり着いた新宿駅はシャッターで閉ざされていました。シャッターを背に冷え冷えとしたコンクリートにすわり込み、駅が開くのを待ちます。
やがてうとうとしていると、昨夜のジャンバー男が僕を見おろし声をかけます「お前みたいな髪の長いヤツを見てると腹が立って来るんだ、さっさと消えちまいな」
---別に髪が長くたっていいじゃないか、消えたくなんてないよ。東京に来たばっかりなのに消えちまえなんて、ひどいじゃないか。入学式に行ってればこんな目に会わなかったのに、一体僕は何をしてるんだろう---
僕は泣いていました。泣きじゃくっていました。

背中にガクンと振動が伝わり、目を醒ましました。シャッターが開き始めたのです。
立ち上がるとひどく頭が痛いのです。駅構内をふらつきながらようやく中央線のホームにたどり着きました。水飲み場を見つけ蛇口に口を付けるようにして水を飲み、顔を洗い、停車していたオレンジ色の電車に乗り込みました。車内は暖房でいくらか暖かく(西荻窪に着いたら降りなくちゃ)と思いつつ、電車が発車するやすぐに寝込んでしまいました。
目覚めると車窓越しに牛が見えました。次に目を醒ますと今度は東京駅でした。
西荻窪の3畳間に辿り着くまで3時間かかりました。(97年3月3日記・以下次回)

-第4回 了-

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「マニアの至福」第5回

73年9月、はっぴいえんど
「ラストタイムアラウンド」-1-

入学式には参加しなかったものの学生としての生活が始まりました。といっても二部学生の身で定職にも就かず昼間はぶらぶらしています。僕は4月の中旬、市ヶ谷にある音楽プロダクション「風都市」を訪ねることにしました。
2月にS駅にあがたさんを見送りにいった際に「風都市」の人から「東京に来ることがあったら是非遊びに来て」と言われていたからです。
「風都市」とは、あがたさんや「はちみつぱい」や解散した「はっぴいえんど」のメンバーを擁する音楽プロダクションです。
国電の「市ヶ谷駅」に降り橋を渡って坂を登りつめたマンションの5階に「風都市」はありました。
インターフォン越しにその人の名を告げると、ほどなく現れましたが僕を覚えてはいません。
中へは入れず近くの喫茶店で30分だけお茶を飲みながら話をすることになりました。
僕は無事大学に入学できて東京で暮らせることになったと告げました。
「それはおめでとう」といわれました。
東京で生活できる感激や、風都市を訪れることができた感動を口にしました。
相手は無言でした。S駅でのニコニコした態度と比べるとまるで別人です。
僕はその人がマネージャーを務めていた「はっぴいえんど」の松本隆氏が72年に発表した単行本「風のくわるてっと」に書いていたエピソードについて尋ねました。
「『抱きしめたい』の詞は青森から東京へ向かう電車の中で書かれたのですか?」
「ゴメン、俺、カルテット読んでないんだ。奥付だけ見て、うそ書いてるって、それだけ」
「-----。」
僕は話題が尽きたら、あがたさんとのつい先だっての出来事について話そうと思っていました。僕にとってはかなりな体験であり面白がって聞いてくれるのではないか、と考えていたからです。
しかし、やめにしました。どうやら音楽が好きな人と音楽が好きな人をとりまく人達とは別の人達なのでしょう。会話がほとんど成り立たないままに約束の30分が近ずいてきます。
「今はまだ発表の段階じゃないけど、秋にどえらいことやるから楽しみにしてて」それだけ言うと、その人は喫茶店を出ていってしまいました。

8月発売の「ニューミュージック・マガジン」に次のような告知がありました。
●9月21日 文京公会堂「CITY-Last time around」出演=はっぴいえんど、キャラメル・ママ、ココナツバンク、ムーンライダーズ、吉田美奈子、南佳孝、他
72年にアメリカで3枚目のアルバムのレコーディング完了をもって解散した「はっぴいえんど」を中心としたコンサートが開催されるのです。「キャラメル・ママ」「ココナツバンク」「ムーンライダーズ」とは「はっぴいえんど」解散後の4人がそれぞれメンバーとして名を連ねている新しいバンドです。
どえらいこととはこのことだったのです。
開催を知った数日後にNHK教育テレビで放送された「若い広場」に僕が会った人ではない風都市の方が出演していました。番組には「日本のロックは今」といった副題がついています。
風都市の方はさかんに「風都市は日本のロック界の渡辺プロをめざす」旨の発言をしていました。その考えが「CITY-Last time around」と結びついているのは明白です。
「はっぴいえんど」のメンバーは「いいものを作りさえすれば売れる売れないは関係ない」と発言し、また「この4人でやることは尽きたから」といって解散したのです。
4人での最後となったアメリカでのレコーディングも彼らの意にそぐわない形でシングル盤からアルバムへと曲数が変更されています。
コンサートに出演する4人、すなわち細野晴臣氏、松本隆氏、大瀧詠一氏、鈴木茂氏の「はっぴいえんど」としての意識はどのようなものなのでしょう。
しかし「CITY-Last time around」に登場した「はっぴいえんど」のメンバーはなんと5人だったのです。(97年3月9日記・以下次回)


「マニアの至福」第6回

73年9月、はっぴいえんど
「ラストタイムアラウンド」-2-

僕が「はっぴいえんど」をはじめて聴いたのは、1971年の春のことです。S市の大学を受験したものの不合格で浪人生活が始まろうとしていた頃、同じく浪人が決まった友人の家で麻雀をしているときに聴いたのです。ファーストアルバムにあたる「はっぴいえんど」です。
 当然1曲目の「春よ来い」から聴いたのですが、手造りに夢中だったせいもあり歌詞が歌われ始めても何を言っているのかよく聞き取れず(アメリカのロックバンドの曲かな)ぐらいの気持ちでいました。どうやら日本語で歌われているらしいと思い始めたのは「ひとりぼっち」なる言葉がファズのきいたギターの隙間からかろうじて聞き取れたときです。
「これ、誰?」と僕が尋ねると「ハッピーエンド、岡林のバックバンド」と友人が答えました。
岡林とは岡林信康のことであり僕は「友よ」や「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」といったフォークソングを歌う歌手として知っていました。しかし、それらの歌は集会で友人達によって歌われるのを聴いただけで、岡林のレコードは一度も聞いたことがありません。
 フォークソングと言われるものでは、それまでに一度「×××赤い××」の実況録音なるアルバムを聴かされたことがありました。しかし「これが日本だ ぼくらの国だ」などと歌うのです。同じ歌が反戦集会でも歌われます。国家を否定する人たちの口から「これが日本だ ぼくらの国だ」なる言葉が発っせられるのです。
 僕はベ平連の集会に参加することはあっても、一緒に歌うことはありませんでした。
----所詮、歌は歌でしかないのに、こいつら、歌うことが戦うことだと思ってやがる。歌うことで連帯しようなんて思っている。なんて○○(2文字自粛)な奴等なんだ----と常々僕は思っていました。
 そういった理由で僕は日本のフォークなど聞く気にもなれませんでした。集会に顔を出しても、いつもつまらなさそうにビラを眺め一緒に歌うでもない僕には「陰気」「虚無」「いじけ」なる形容がついていました。

 しかし、今聴いている「ハッピーエンド」の音はフォークシンガーのバックバンドの音としては、あまりにも異質です。なんとも言いようのない形容しがたい音楽、しかし紛れもなくロックです。
 2曲目が始まりました。曲のメリハリというものを全く無視した、何か得体の知れない鬱屈がぶら下がっているようなイントロに続き、感情の起伏を無理にでも押さえ込もうとでもするかのように抑揚を持たせないボーカルが延々と続きます。日陰で増殖するモヤシような陰鬱なギターの音と、ここぞとばかり裏を叩くドラム。その隙間にもぐり込み時たま弾けるベース。パートそれぞれがお互いの存在を無視しひたすら個の孤独な作業に打ち込んでいるようで、しかし時に共振しあっています。ここには反戦も連帯も存在しません。存在するのは私と垣間みれる君。
 曲の後半「私は熱いお茶を飲んでいる」と日本語で反芻するに至りこれは僕のための歌だと思いました。「かくれんぼ」では「私たち」とか「僕ら」といった複数の一人称から解放され、私のみが歌われています。言葉は自己の内側へと向けられ、他人へのメッセージは皆無です。
このことを意識した刹那「ハッピーエンド」が「はっぴいえんど」となって僕の中に沈澱したのでした。
 *     *     *     *    *
 「はっぴいえんど」は「日本語ロック」の創始者として、内田裕也一派との対極と位置づけられることになるのですが、僕は「はっぴいえんど」は反戦とか連帯とかいった陳腐な言葉を並べたてていた「当時の日本のフォーク」の対極としてこそ位置づけられるべきだと思っております。

(裕也一派は、勝手に「岡林」も「はっぴいえんど」もひとからげにして敵と見なしたのでしょう。------1971年4月5日に「ニューミュージック・マガジン」編集長・中村とうよう宅で『日本のロック情況はどこまで来たか』と題された、世に言う「日本語ロック論争」が展開されました。論争の内容を読みたい方は、[こちら]をクリックして下さい。artmaniaホームページ上の「日本語ロックの生き証人〜1971年(いわゆる、日本語ロック論争)」にジャンプします)

(97年3月18日記・以下次回)

-第6回 了-

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「マニアの至福」第7回

73年9月、はっぴいえんど
「ラストタイムアラウンド」-3-

 1972年には解散していた、はっぴいえんどの最後のコンサート「CITY-Last time around」は1973年9月21日(金曜日)に文京公会堂で開催されたました。(もっとも、はっぴいえんどはその十年数年後にまたコンサートに出場するのですけれど)
 夕刻の文京公会堂前には沢山の人達が列をつくっています。座席は自由で、いわば早い者勝ちでよい席を確保するのです。チケットは発売日に手に入れており、開演1時間前には会場前に到着したのですが、あまりの人の多さに入場できるかさえ不安になってきました。
 2時間前に文京公会堂に到着の予定が、僕は後楽園駅で女の子と待ち合わせをしていたために遅れてしまったのです。待ち合わせの相手はS恵さんといいます。S恵さんは待ち合わせを1時間過ぎても現れません。彼女とは大学で同じクラスです。彼女との出会いは唐突で、別れも突如としてやって来るのでしたが・・・。
 その年の5月、僕はまだ大学で授業を受けていました。休憩時間に僕は教室脇の踊り場の手摺に肘をつき、建物の隙間から階下の街を見下ろすのが習慣になっていました。仕事を終えたサラリーマンの列が駅に向かって歩いています。サラリーマンは背中をすぼめて行進しています。(僕もいまにあの隊列に加わるのだろうか)などと思い眺めているのです。僕は大学に入学しても独りです。友達はいません。
 けれどその時は少し様相が違ったのです。大学の脇に修学旅行生の宿泊施設があり、同じ階のフロアから窓越しに、女子高生数人が僕を見ていたのです。距離にして10メートルぐらいでしょうか。単に髪が長いというだけで僕は彼女達にとって、珍らしい存在だったのかも知れません。彼女達は何やら相談している風でしたが、やがて意を決したらしくひとりが僕に声をかけてきます。「こっちを見て下さーい」「手を振って下さーい」僕は見るだけは見ました。すると、カメラを構えシャッターを切ろうとしているのです。とてつもなく恥ずかしく僕はうつむいてしまいました。そこへS恵さんが通りかかったのです。それまで僕はS恵さんはもとより、同級生の誰とも会話を交わすこともありません。たしか彼女は昼間は研究生としてお芝居の学校に通っているようなことを自己紹介の席で話していました。
 「なに、してんの?」とS恵さん。僕が女子高生の方を指さすとS恵さんはすべてを察し面白そうに彼女達に手を振りました。女子高生は喜びそのうちのひとりが「キスして下さーい」と叫んだのです。するとS恵さんは両手で僕をかかえ込むようにしながら、本当にキスをしたのです。キスの間、女子高校生達が歓声を上げているようでした。

(97年4月6日記・以下次回)

-第7回 了-

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「マニアの至福」第8回

73年9月、はっぴいえんど
「ラストタイムアラウンド」-4-

 開演の時間が迫ってきます。僕は待てど来ないS恵さんのことが心配でたまらない反面、だんだん腹ただしく思えてきました。指定席ではないので、遅く入場するほどに後ろの席になるのは目に見えています。
 5月のあの日キスをしたことが(あるいはキスされたことが)きっかけとなって、僕たちは恋人同士といった定義付けを同級生からされていました。キスは同級生数人によって目撃され当然クラスの話題となったのです。僕が東京で初めて出会えた友達といえるのがS恵さんで、しかもひょっとして恋人といえるのかも知れません。
 彼女は浅川マキのファンでした。6月に彼女に誘われ明大前からほど近い「キドアイラックホール」での浅川マキのコンサートに行きました。S恵さんは好んでジーパンに素足で赤い鼻緒の下駄を履いていました。この日もそうでした。
「まさと君さぁ、娼婦っていいよね。私が娼婦になったなら〜まさと君はど〜うしよう」とコンサートの帰りにS恵さんは下駄をちょんちょん鳴らしながら最後は浅川マキ風にいいました。
 続けて「私のアパートのそばには『ホテルカモメ』っていう連れ込みがあるんだぜ、真昼間っから満員だぜ、いいだろう」と、何がいいのかよくわからないことをいいました。僕が「じゃぁ、今から一緒に『カモメ』に行こうか」というと「あたった、あたった、国際、パチンコ、カモメ、カモメ」ともっとわけのわからないことをいいます。
 彼女は浅川マキは好きでもロックには興味はないようでした。はっぴいえんどのことは知りません。ただし、あがたさんの事は知っていました。
 僕はよせばいいのに「俺あがた森魚の友達だよ、一緒に酒飲んだこともあるんだ」というと「ふーん、まさと君は森魚ちゃんのお友達なの?今度、一緒に会いたいなぁ」といいながらフッと笑うのでした。
 僕にとってその笑みは不気味でした。
 彼女の笑みの奥には僕には計り知れない深淵な確信が存在しているように思えたのです。それは明治大学の一部には入学できそうもないので二部学生でもいいや、といった消極的な理由で二部を選んだ僕とは全く違った自信に満ちた人生を選択しているからこそ持ち得る確固たる自我が存在しているようでした。
 僕はあがたさんと友達だといってしまったことを後悔していました。
 ともかく、僕はこのコンサート「CITY-Last time around」の進行している間に彼女にふられるのです。(彼女は、彼女が僕から離れたと表現するのですが)

*  *   *   *  *   *   *   *

 そんなことは全くわからず、僕はS恵さんを待ちきれないまま一人で文京公会堂に入場しました。満員になりかけている会場のほとんど最後部の左手にどうにか空席を見つけることができました。僕はチケットを2枚購入し1枚はすでにS恵さんに手渡しています。この会場のどこかに彼女は、いるのでしょうか?
 開演を前に客席はざわついています。立ち上がって出入口の方に手をふる女の子。足速に通路を駆け降りる数人の女性達。しかしS恵さんは見あたりません。
僕は---始まってしまえば俺のもんだ---と思うように務めました。そうです。もともと「はっぴいえんど」を知らないロックに興味のないS恵さんをさそった僕がいけなかったのです。コンサートさえ始まってしまえばS恵さんのことなど忘れてステージに集中することができる、演奏に身を委ねられる、そう思い込む以外に術はないのです。
 開演のベルが鳴り会場が暗くなりました。緞帳は降りたままです。上手からスポットライトを浴びて男が一人ステージ中央に向かって歩んできます。誰なのでしょう?
 かまやつ×××でした。会場全体が一瞬ためらったようです。なんで××(2文字自粛)のかまやつ×××がここに現れなければいけないんだ?まさか司会でもやるつもりじゃないだろうな?
 そう思ったのは僕だけではなかったようです。というのも観客の一人が「かまたさーん」と、かまやつ×××に向かって声をかけ、かまやつ×××がそれに応えて「はーい」と右手を振ったのですが客席はそれに沈黙で応じました。
 僕はこのコンサートは素晴らしいものになるぞ、と確信しました。ここに集っている多くの人達にとってかまやつ×××の登場などどうでもよいのです。みんな「はっぴいえんど」や解散後の「はっぴいえんどのそれぞれ」が手がけ始めた音楽を聞くために、じかに体験するためにここに集っているのです。
 どうやら、かまやつ×××自身も自分が場違いな存在であることだけは察したのでしょう。
彼は「CITY-Last time around」の開催を宣言するや退場しました。
そして本当に「CITY-Last time around」は素晴らしいコンサートとなるのでした。

 かまやつ×××が去り、緞帳があがるとステージ中央にピアノが一台、そしてその鍵盤に手を差しのべ私の指からコンサートのすべてが始まるのだとこの日のためのリハーサルを重ねてきた吉田美奈子の姿がありました。

(97年4月12日記・以下次回)

-第8回 了-

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「マニアの至福」第9回

73年9月、はっぴいえんど
「ラストタイムアラウンド」-5-

 吉田美奈子さんはピアノを奏で始めました。ひとつ一つの音を確かめるように鍵盤を指先がとても大事に、はじきます。暖かい音色です。やがて静まり返った文京公会堂に歌声が響きます。
---ねこが耳をなでると 雨が降るといいますので 私は今日は家に居ることにしました---
 僕は戦慄しました。なんと切ない響きなのでしょう。 彼女の歌声が僕の心に沁みわたるようです。それは、リズムに乗せられて気づかないうちに爪先が上下したり、あるいは指先がひとりでに腿の上を叩いたりするのとは違った感情です。体ではなく心に伝播する感動というものでしょうか。
 僕はピアノを奏で歌う彼女の姿を記憶にとどめるためにステージに視線を向けていたいと思う反面、この楽曲を記憶するには僕の持つすべての能力を聴覚に集中し、この際視覚には目をつぶってもらおう!といった矛盾した気持ちを持ってしまいました。
 そして、この二律背反を成り立たせるために、背を椅子に凭れさせ口を半開きにしたまま、ぼんやりとステージに視線を投げ微動だにしなかったのです。これはいわば腑抜けの状態です。
 やがて美奈子さんは一曲目を歌い終えました。『ねこ』という題名でした。そして「ありがとう」と語りまた歌い始めます。歌と歌の間はとても言葉少なです。そこには、おしゃべりを交え観客の心をつかむといった行為は微塵もありません。
 恋人との愛を題材とした歌などが後に続き美奈子さんはステージを終えました。
 僕は舞台から去っていく彼女に拍手を送りました。この時僕はS恵さんとのことはすっかり忘れていました。

 南佳孝氏は白いスーツ姿でした。やはりピアノを前にして、しかし彼は時に饒舌です。南佳孝氏と吉田美奈子さんがこの日アルバムデビューを飾ったことや彼のデビューアルバム「摩天楼のヒロイン」のプロデュースは松本隆氏が行ったことを曲の合間に教えてくれます。またあるラジオ局で南佳孝氏がディスクジョッキーを担当していることも報告しました。しかし歌うと彼は実直です。
 いってみればワインがそそぎ込まれた瓶にコルクをして、やがてラベルを貼り箱詰めにして出荷するように、言葉にメロディを与え、ピアノを奏で次々と発表します。
『摩天楼のヒロイン』を披露する前には「そのあと弾丸列車に途中下車して最後はピストルです」といい『ピストル』では歌の最後でこめかみに人差し指のピストルをあてがい「バーン」とやりました。

 その後僕は、南佳孝氏のコンサートに何度となく足を運ぶようになり、彼はついには僕のためだけにステージを用意してくれることになるのでした。しかし、いましばらくは「CITY-Last time around」のコンサートのことを続けます。

(97年4月29日記・以下次回)

-第9回 了-

(付記・「CITY-Last time around」の記憶の裏打ちをすべく、コンサートのライブアルバム「素晴らしき船出」を押入れの奥深くから引っぱり出しライナーノーツを読んだ。それによるとなんと最初に演じたのは南佳孝氏であった。
 またアルバムを聴いてみると吉田美奈子氏が歌った『ねこ』は前奏でピアノよりも前に弦が奏でられている。僕の記憶からは弦の音が完全に欠落していたのだ。いつかの時点でピアノを弾き歌う彼女の行為だけが僕のなかに沈澱した。
 いや「CITY-Last time around」の行われた当日から僕には弦の記憶がない。僕は彼女に集中しピアノの演奏と歌声に感動していた・・・。ここではこの24年間持ち続けた僕だけの記憶を真実よりも優先することにした。だが、ひょっとして記憶は真実に勝るかもしれない。すなわち、弦はなかったのだと。)

なお、僕の記憶についての反論は以下の枠に記して下さい。

ありがとうございます。
さて、あなたがいま書いた上記反論を
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ありがとうございました。


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「マニアの至福」第10回

73年9月、はっぴいえんど
「ラストタイムアラウンド」-6-

 

 南佳孝氏のステージが終わりステージが暗くなりました。中央にあったピアノが移動します。スタッフが動き回っています。機材をセットする音が、会場はずれのステージを俯瞰できる僕の席にまで伝わってきます。どうやら、次は多人数の編成による演奏のようです。

 S恵さんは見つかりません。S恵さんはやってきません。僕は、こめかみにピストルを当て「バーン」とやってしまいたい気持ちになっていました。どんなにコンサートに集中しようが、やはりS恵さんのことが気になります。東京に出てきて初めて知り合えた友達。もっと言い切ってしまえば僕の恋人。そのS恵さんとのお互いの気持ちを確かめるために手に入れたはずの2枚の切符。東京での初めての夏の終わりはこんな風にあるのだよと、期待を持ち傘をささず、にわか雨のなか待ち続けた2時間前の記憶。S恵さんと一緒だったときの記憶がよぎります・・・。ジーパンに素足で赤い鼻緒の下駄をちょんちょんならしながらフッと笑うあの表情。 大学の校舎でのはじめてのキス。自宅近くの『ホテルカモメ』を観察し得意げに話したときのこと・・・。やはりS恵さんは現れません。

 そして、次のステージが始まってしまいました。中央に「ディランII」の西岡恭蔵さんがいます。その恭蔵さんを囲むようにコーラス隊が結成されています。フィドルを手にしたくじらさんが耳に手を当て口をすぼめながら歌い始めます。スチールギターを前にした駒沢さんもいます。そして、なんと、あがたさんです。あがた森魚さんが参加しています。僕は、あがたさんの足下に目を転じハッとしました。いつものように下駄履きに変わりはないのですが、その下駄は赤い鼻緒です。あがたさんが窮屈そうに履くその漆黒の下駄は女性用の赤い鼻緒の下駄です。僕はそのとき確信をもって言い切ることができたのです。あがたさんの履いているあの下駄はS恵さんの下駄に間違えないと。 それにしても、なぜあがたさんがS恵さんの下駄を?

(99年1月24日記・以下次回)

-第10回 了-


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